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全ての初めに

形が在る。音が在る。臭いが在る。感触が在る。

快感が在る。不快感が在る。

動かなくなった。

私、が居る。

次は、何をしようか。

辛い。何をすれば良いんだ?

辛さを無くしたいのか? なら何故想像し続ける?

虚しさを無くしたいのか? なら何故生きる?

したい事が無いから辛いのか? 私は何がしたい?

人生の最も大きな辛さは想像による不安に起因する。これから逃れる最も根本的な方法は、想像を止める事である。しかしながら、いつか死ぬという虚無感にかかれば、辛さの回避さえ私の第一目標とはならない。

A. Camus 1969シーシュポスの神話清水徹(訳)
「死というこの宿命の破滅的な照明を浴びると、無益という感情があらわれる。」

では、死ぬという虚無感が辛さの原因だろうか。カミュの言う「破滅的な照明を浴び」て無益と化さない行為が私の生涯持ちうる選択肢の中にあるだろうか。これはつまり、「生きる目的」が存在し得るか、と言える。

死の虚無感に晒されないとは、死なないという事である。私の中で遥か遠くの他者とさえ共有し得る部分が、寿命を超えて生き続ける。生きる目的になり得る行為とは、この「私」が、他者との間に為す行為である。

池田晶子 200614歳の君へどう考えどう生きるか清水徹(訳)
「....本当に大事なこと、すべての人に共通する本質的なことだけを、考えて、語るようにしようじゃないか。」(性別)
中沢新一 2007ゲドを読む。

「古典作品は、作家の個人性を超えた、人類の無意識からしか誕生しないのです。」(『ゲド戦記』の愉しみ方)

それでも、生きる目的になり得るというだけで、そのものではない。私は、論理の示す生きる目的よりむしろ、日々現れる選択肢に対して何を選び取るかについて感情を伴う基準を必要としている。